2009年06月16日

花粉症(かふんしょう、hay fever )とはI型アレルギー

花粉症(かふんしょう、hay fever / pollen allergy / pollen disease, 医 pollinosis または pollenosis )とはI型アレルギー(いちがた?)に分類される疾患の一つ。植物の花粉が、鼻や目などの粘膜に接触することによって引き起こされ、発作性反復性のくしゃみ、鼻水、鼻詰まり、目のかゆみなどの一連の症状が特徴的な症候群のことである。枯草熱(こそうねつ)とも言われる。

くしゃみ、鼻水、鼻づまりなどはアレルギー性鼻炎(鼻アレルギー)の症状であり、花粉の飛散期に一致して症状がおこるため、季節性アレルギー性鼻炎(対:通年性アレルギー性鼻炎)に分類され、その代表的なものとなっている。目の痒みや流涙などはアレルギー性結膜炎の症状であり、鼻炎同様に季節性アレルギー性結膜炎に分類される。広義には花粉によるアレルギー症状全てを指すこともあるが、一般的には上記のように鼻および目症状を主訴とするものを一般的に呼ぶことがある。また、狭義には鼻症状のみを指し、目症状は結膜花粉症(または花粉性結膜炎)、皮膚症状は花粉症皮膚炎または花粉皮膚炎)、喘息の症状は花粉喘息、喉の不快感などの症状はアレルギー性咽喉頭炎などと別に呼ぶことがある。

この記事では、hay fever = 枯草熱、pollinosis = 花粉症というように、古語・現代語、一般名・疾病名、の観点で呼び分けることもある。枯草熱も医薬品等の効能に表記されるれっきとした医学(医療)用語であるが、ここでは花粉症で統一する。なお、pollen allergy は花粉アレルギー、pollen disease は花粉病(花粉による疾患)の意である。

一般的症状 [編集]
主な症状は、くしゃみ、鼻水、鼻詰まり、目のかゆみとされ、一般に花粉症の4大症状と呼ばれる。(耳鼻科領域においては、目のかゆみを除外したものを3大症状と呼んでいる)。
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二次症状 [編集]
鼻詰まりによって匂いが分からなくなることがある。それにより口呼吸をするため喉が障害されることも多い。
後鼻漏と呼ばれる喉に流れる鼻汁により喉がイガイガしたり、咳や痰が出るなどのこともある。
頻度は低いが喘息に似た症状が出ることもあり、すでに喘息患者である場合はその発作が起きることもある。(別項参照)
目の異物感や流涙、目やにが出現する。不適切にコンタクトレンズを使用している場合、巨大乳頭結膜炎などにもなり得る。
耳の奥の痒みが出現する。小児の場合、痒みなどから鼻をいじることが多く、鼻血の原因になることも少なからずある。
副鼻腔炎などが合併することがあるので注意が必要である。これは風邪と同様に鼻汁が粘度の高いものになり、眉間や目の下など、顔の奥の部分に重い痛みなどを感じることが特徴であるが、そうした症状を感じないこともある。後鼻漏もおきやすい。後鼻漏による鼻水が気道に入ると気管支炎の原因ともなり得る。検査方法も適した薬剤も異なるので、症状が変化した場合には早めに医療機関に受診することがだいじである。特に副鼻腔炎は小児に多いといわれる。
頭痛や頭重感、微熱やだるさなどの全身症状を呈する場合もある。ニセアカシアなどの花粉症では症状が比較的重く、これらの症状を示す場合が多い。
口から入った花粉や花粉を含んだ鼻水を飲み込むことにより、下痢・吐き気・腹痛などの消化器症状が出る場合もある。
目の周りや目の下、首筋などによくみられる炎症などの皮膚症状は、花粉症皮膚炎と呼ばれることもある。また、アトピー性皮膚炎の患者が、花粉症シーズンにかゆみが増すことも知られている。いずれも花粉による症状であれば、花粉の飛散期に一致して症状がおこる。
花粉の種類と量によっては、まれにアナフィラキシーショックを起こすこともある。(別項参照)
睡眠不足、集中力欠如、イライラ感、食欲不振等も生じてくる。うつなど心理的影響を呈する場合もある。

2009年05月30日

禁中並公家諸法度

禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)とは、江戸幕府が、天皇及び公家に対する関係を確立するために定めた法令である。禁中并公家中諸法度、禁中竝公家諸法度、禁中方御条目ともいう。

この法度は、徳川家康が金地院崇伝に命じて起草させた[1]。慶長20年7月17日(1615年9月9日)、二条城において大御所(前将軍)・徳川家康、将軍(二代)・徳川秀忠、前関白・二条昭実[2]の3名の連署をもって公布された。漢文体、全17条。江戸時代を通じて、一切改訂されなかった[3]。
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この法度の制定に先立ち、慶長18年6月16日(1613年8月2日)には、「公家衆法度」「勅許紫衣之法度」「大徳寺妙心寺等諸寺入院法度」を定めていたが、この法度によって、さらに天皇までを包含する基本方針を確立した。以後、この法度によって幕府は朝廷の行動を制約する法的根拠を得て、江戸時代の公武関係を規定するものとなった。

この法度は江戸時代を通じて改定される事は無かった。また、寛永8年11月17日には当時の後水尾上皇主導で「若公家衆法度」が制定された。この制定には幕府は間接的な関与しか行わなかったが、青年公家の風紀の粛正を目的とし、朝廷行事の復興の促進とともに公家の統制を一層進める事となり、禁中並公家諸法度を補完するものとなった。

2009年04月27日

戦闘の詳細

ドイツの計画
侵攻作戦は陸軍参謀総長フランツ・ハルダーに起案され、陸軍総司令官のヴァルター・フォン・ブラウヒッチュによって指揮された。軍事攻撃は宣戦布告より前に開始されることになっており、近代的な航空戦力と戦車部隊を使った伝統的な殲滅戦理論に則したものであった。歩兵はほとんど自動車化されていなかったが、自走砲部隊と兵站部隊を維持して戦車部隊に支援され、トラックに載せられた歩兵(装甲擲弾兵の前身)は敵前線に集中する侵攻部隊の迅速な移動を助け、孤立した敵の部隊を包囲殲滅することとなっていた。それに対して、グデーリアン等によって戦前に提唱されていた電撃戦理論は、機甲部隊が敵前線に激しい攻撃で突破口を開き、敵の後方深くまで一気に進撃することであったが、実際のところポーランドでの作戦は電撃戦でなく、もっと伝統的な殲滅戦理論に沿って戦われることとなった。これは装甲師団や機械化部隊の役割を伝統的な歩兵部隊の支援に限定すべきだとする陸軍上層部の間に蔓延していた保守主義に原因するものであった。

ポーランドは平野が多く総延長5,600キロメートルもの国境線を抱えた広い国だったので、機動的な作戦に適した国であった。ポーランドは西と北(東プロイセン側)でドイツと総延長2,000キロメートルもの長い国境を接していた。1938年のミュンヘン協定後はドイツとの国境は南部でさらに800キロメートル延長された。ドイツのボヘミアおよびモラヴィア併合と、ドイツの傀儡国家である独立スロバキアの誕生は、ポーランドの南側面がドイツによる攻撃に対し無防備になっていることを意味していた。

ドイツの戦争計画立案者は長い国境線を侵攻作戦の殲滅戦理論の機動戦術に存分に利用しようと目論んだ。ドイツの各部隊はポーランドを3方面から侵攻することとなった:

ドイツ本土からポーランドの西国境を突破する主力攻撃。これはゲルト・フォン・ルントシュテット将軍指揮下の南部軍集団がドイツ領シレジアと、モラヴィアおよびスロヴァキア国境から攻撃する。ヨハネス・ブラスコヴィッツ将軍の第8軍はウッチ市へ向け東進、ヴィルヘルム・リスト将軍の第14軍はクラクフ市へ向けて前進しポーランドのカルパチア山系側面を迂回、そしてヴァルター・フォン・ライヒェナウ将軍の第10軍は南部軍集団の装甲師団と共に中央に位置し敵に決定的な打撃を与えながらポーランドの中心部へと推し進む。
プロイセンからの第2の攻撃ルート。フェードア・フォン・ボック将軍が北部軍集団を指揮する。ゲオルク・フォン・キュヒラー将軍の第3軍は東プロイセンから南進し、ギュンター・フォン・クルーゲ将軍の第4軍はポーランド回廊の横切って東進。
第3の攻撃は南部軍集団の一部と同盟した独立スロバキア軍がスロバキアから攻撃。ポーランド国内では開戦前に第五列であるドイツ系住民の自衛団 (Selbstschutz) の各部隊が陽動作戦や破壊活動を行いポーランドに侵入するドイツ軍を支援した。

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全ての強襲部隊はワルシャワに向かって進軍し、その過程でポーランド軍の主力部隊はヴィスワ川の西で包囲殲滅されることとなっていた。「白の場合」作戦は1939年9月1日に開始され、第二次世界大戦の最初の軍事作戦となった。

2009年04月10日

ウィンナ・ホルン

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団では、ウィンナ・ホルン(ヴィーナー・ホルン)と呼ばれる伝統的なF管シングル・ホルンを原則として使用している。これは、ウィンナ・バルブ(あるいはダブルピストン・バルブ、プンペン式バルブ)と呼ばれる特殊な旧式のバルブを備えている。またナチュラルホルンのコール・ドルケストル(後述)と同様に、円形のボーゲンと呼ばれる独特のマウスパイプが装着されている。19世紀中頃から構造や形状が進化しておらず、一種の古楽器とみることができる。音色は暗く重く、より自然ホルンに近い。フォルテで音が楽に割れやすく、物理的な音量をあまり上げずにフォルテッシモのような響きを作ることができる。このため声を覆い隠さないオペラの伴奏に適している。F-シングルホルンであるため高音の倍音間隔が狭く、ミスを起こしやすい。

ナチュラル・ホルン
19世紀前半まではバルブを持たず、自然倍音のみを発音できるナチュラル・ホルンが用いられた。この楽器では普通の状態では自由に半音階を演奏することはできない。バロックから古典派前期のホルンのパートが比較的単純な音形に限られるのはこのためでもある。18世紀中葉に、ハンドテクニックの開発すなわちベルの中の右手の位置を変える事により、自然倍音から音程を最大で長2度上昇もしくは下降させる奏法(ストップ奏法)が考案され、この技法と管体自体の調性を変える(管長が短い順にB♭、A、G、F、E♭、D、C)ことで、開放音とストップ音、ハーフ・ミュートなどによる音色の犠牲はあるものの、半音階をある程度演奏できるようになった。この時代からソリストとして活躍する奏者が現れ出す。 楽器も独奏者用のコール・ソロとオーケストラ奏者用のコール・ドルケストルの2種類に分かれ、前者の演奏家はサロンでもてなされ、後者は台所でビールを傾けるなど、身分的な差もあった。

ハイドンやモーツァルトの協奏曲はこのような時代に書かれた。しかし、1814年のバルブの出現により、ナチュラル・ホルンは次第にバルブ付きホルンに取って代わられることとなる。それでもフランスのホルン奏者は、バルブ付きのホルンを好まずナチュラルホルンを愛用したため、ロマン派時代でもナチュラルホルンのために作曲されていることも多い。自身もホルンを演奏したブラームスは、当時のドイツでは殆どバルブホルンに代わっていたにもかかわらず、ナチュラルホルンを好んだ。ブラームスの管弦楽作品におけるホルンパートは、ナチュラルホルンを意識した擬古的な書き方になっている。また彼のホルン・トリオは完全にナチュラルホルンのために作曲されている。デュカスがパリ国立高等音楽院のホルン科の試験のために作曲した「ホルンとピアノのための『ヴィラネル』」には、前半部にSans pistons(ピストンなしで)という指定があり、この部分はピストンホルンを使いつつもストップ奏法のみで演奏されるようになっている。作曲当時、同音楽院のナチュラルホルン専攻コースはすでに閉鎖されていたが、ホルン科の学生は専攻コースが無くなった後もナチュラルホルンを並行して学んでいたことが分かる。

ナチュラルホルンは現代の古楽復興の流れの中、ヘルマン・バウマンがモーツァルトの協奏曲集が録音してから、様々な演奏家によって演奏されるようになっている。創立当時より優れたホルン奏者を育ててきた前述のパリ国立高等音楽院のナチュラルホルン専攻のコースは、ピストンホルンの普及とともに19世紀末に廃止されたが、近年のピリオド・アプローチの復活とともに、パリ管弦楽団首席奏者のミッシェル・ガルサン=マルーによって数年前に再開された。彼の定年退職後、現在はクロード・モリーが教授として指導にあたっている。また日本人ホルン奏者根本雄伯もパリ郊外カシャン市の国立音楽院でナチュラルホルンを教えている。

また、ヨーロッパでは郵便馬車がその到着を知らせるために一種の無弁ホルンを用いた。これはポストホルンの名で知られる。この楽器を音楽作品に用いた例として知られるものにモーツァルトの「ポストホルン」セレナーデ (第9番ニ長調、K.320)、マーラーの交響曲第3番がある。なお、こうした歴史からヨーロッパの郵政機関の標章には、今日でも角笛やポストホルンをモチーフにしたものが多い。

バゲット クス ポイント ヌガー ソリッド 一石二鳥 ミックス ランウエー アヨーチン ブルペン ステーク ドンファン フィル 検索クワ ギガス おじまじ タンポン カレンシー ぼうふう トリグ シャーマン シシャパ キトサン タウリン フィー リーキ シシカバブ バーガー モダンアート セントラ ヒンドゥー フレッ サイゴン 王様検索 フルネュ ナロー ひみつり オーバ カーフェリ サーベイ レジェンド サー油 マイタ かぶらや デミタ ラジエ スター ダンサー テンキー イニング

2009年03月27日

スーパードルフィーと海外製キャストドール

ボークスは朝日ソノラマ刊の「スーパードルフィーパーフェクトカタログ」の116ページ目において、2003年に韓国のソウルに進出した事をレポートする文章の中で、「残念な事にスーパードルフィーの類似品の存在が明らかになった」と主張し、それらを「法の目をくぐり抜けようとした確信犯的類似品」などと表現して非難しており、ドールイベントへの海外製キャストドールの持込を規制している(その次のページでは、京都府警に検挙された日本国内のスーパードルフィーの模造犯に関するレポートが掲載されている。)。
じんのおび トップライト テドラル なかよし ナベラル モルグ ベニデュ ムード フォワグ ビアガ 芽キャベツ セーラー ローレライ ビーフ シャッター トリノ むぐらふ ノッポ リップ チェン デコレータ サカユ ききょう キウイ デッド ハイウェイ ブロック シリーズ フィクシ ミレニアム リチェ リスチン かくぐう ラウィ フワン フラグ サーチトゥ ニック スポット レーベル 迷い道 カエサ タピオカ リトライ オブソ ソフトテニ ナンス カシミ プルーン おびひろ

最近では2006年に開催されたドールイベントで、意匠権の侵害を理由に「SDとその関連製品に類似した海外製ドールの持込を禁止する」という規制が設けられ、その曖昧な基準を巡って現在も議論が絶えない状態である。一方で、幼SDやSD16・SD17は、以前から海外製キャストドールで高い人気があった「小型幼児タイプ」と「長身青年タイプ」の模倣ではないかという見方もある。

スーパードルフィーの世界設定 [編集]
初期のSDは「異次元からの訪問者」というキャッチコピーで展開されていた。球体関節とテンションゴムによる「創作人形的」な構造に、パーツの交換や改造といった「模型的」なシステムを取り入れたSDは、それまでの着せ替え人形、ガレージキット・フィギュアの中においてまさに「異次元」であり、革新的な「素材」であった。

だが、「天使の里 聖母降臨の儀」の前後を境に、オーナーとSDを密接に繋ぎつける設定展開が盛んになり、それまでの「好みに改造できる球体関節人形のガレージキット」から「購入者の人格を反映する(ボークスは「もうひとりの貴方」と表現する)完成品ドール」へと変化していった。 SD写真集「もうひとりのわたし」にも記載されている「SDの世界観」と題された図説によると、オーナー(SDを所有する人)とSDは「おみ霊(おみたま)」という人智を突き抜けた存在でリンクしており、オーナーとSDは死後も一体の存在であると説いている。こうした擬似宗教的な設定が、一部のSDオーナーから嫌われており、抗議運動が起こった事がある。[1]

一連の世界観設定の中で霊魂のような意味合いで使用されている「おみ霊」という単語は、一部の新宗教(真光系諸教団)で実際に使用されている言葉であり、一時はそういった集団とボークスの関係性が疑われたこともあった。

2006年11月、関西ローカル局のテレビ番組でSDが紹介された際に、スタジオで社長自らが「SDを持つと健康になる」等の「五つの効能」を紹介した。「五つの効能」とは、SDを所有することによって「心が癒される(健康)」、「友人が増える(家族)」、「仕事に意欲がわく(収入)」、「知識が増える(教養)」、「自分自身を見つめ直せる(人格)」というものである。

無論、これらの心境や生活の変化は、SD以外の趣味を楽しむ中でも起こり得るものであり、「まるで霊感商法ではないか」とオーナー間で波紋が広がっている。

2009年03月11日

サントドミンゴの植民都市

ドミニカ共和国の首都サントドミンゴの植民都市は、クリストファー・コロンブス[1]らによって建造された新世界における最初の植民都市で、イスパニョーラ島南部に所在する。16世紀前半には新世界で最初の大聖堂や病院、大学などが建てられた。その歴史的価値から、ユネスコの世界遺産に登録されている。2007年現在、ドミニカ共和国唯一の世界遺産である。

サントドミンゴの植民都市(Ciudad Colonial)は、口語では植民圏(Zona Colonial)とも呼ばれる。植民都市は、サントドミンゴ市の原初の区画の一部分で、1500年代にまで遡るものである。市内を二分するオサマ川(Ozama River)の西端に位置する。今日の区画は5 km? にも満たないが、コロンブス宮殿(Alcazar de Colón)、オサマ砦(Fortaleza Ozama)、アメリカ首座大司教座聖堂(Catedral Primada de America)など多くのランドマークがある重要な地区である。
かつての都市は、オサマ川からコンデ門(La Puerta del Conde)に伸びる防壁に囲まれていた。コンデ門は、後背地に続く唯一の門であり、19世紀後半までは都市の最も遠い境界でもあった。

スペイン人たちは、ここにアメリカでの最初の拠点を設置し、その後アメリカ大陸本土を征服していった。スペイン人が、メキシコ、キューバ、ほか南アメリカ各地を手に入れていった後は、彼らの注意は大陸本土の方に一層向けられるようになったが、それでもサントドミンゴの植民都市は重要な歴史的都市であり続けたのである。

今日の植民都市
丸石で舗装されたカジェ・デ・ラス・ダマス(Calle de las Damas)は、1502年に遡る最古の街路である。この歩行者専用路に、多くのランドマークが並んでいる。

植民都市内には、二つの重要な商業地がある。カジェ・デル・コンデ(Calle del Conde)とアベニダ・ドゥアルテ(Avenida Duarte)である。どちらにも多くの店舗やカフェが立ち並ぶ。アベニダ・ドゥアルテは地元のショッピング・センターといったところだが、より観光客受けするようにとの再開発計画の波にさらされている。

ラス・アタラサナス(Las Atarazanas)に隣接するプラサ・デ・ラ・イスパニダ(Plaza de la Hispanidad, 「スペイン系文化」広場)は、改修され拡張した広場で、小商店やレストランが集まっている。この地域は、アメリカ州で最初に出来た商業的中心地の一つであり、いまなお商業活動のハブとして機能している。

コロンブス宮殿(Alcazar de Colón)は、その名の通り、かつてはクリストファー・コロンブスの一族が居城として用いた建物で、元々は1510年に建てられた。現在は博物館として整備され、当時の調度品などが展示されている。
チャージ タラソ パント トレード 赤ランプ ヒョウ ナブラ ブルマナ スラト トムトム あしたば おれたち シュズ ルームメ カミオ シシュフ パナマ ダウン すだち ダイナ オカル チンギス リージア ネオジ つるが リニティ バップ オロシ かいづか あつま 石榴 ジエンド プレッ ラウンジ ドロップ ビクー ひらら ビノク シェーカー ラタトゥ 麦わら イキシア パッチ ウイロ 麦わら帽子 単発ガ ネイビー ライフ ムスリム ロベリア

サンタ・マリア・ラ・メノル大聖堂(アメリカ首座大司教座聖堂)は、1540年に建造され、コロンブスの遺体を安置していることで知られている。セビリア(スペイン)のセビリア大聖堂をモデルにしており、総サンゴ石造りの大聖堂である。
植民都市のランドマークや文化的遺構の多くは、スペインによる植民地時代に建造されたものであり、中には抜本的な改修や手入れが必要なものもある。

サンタ・マリア・ラ・メノル大聖堂(アメリカ首座大司教座聖堂) Catedral Santa Maria la Menor (Primada de America)
コンデ門(独立公園内)Puerta del Conde (Parque de la Independencia)
コロンブス宮殿 Alcazar de Colón
オサマ砦 Fortaleza Ozama
独立公園 Parque de la Independencia
国立パンテオン Panteon Nacional
王室博物館 Museo de las Casas Reales
王立日時計
サン・フランシスコ修道院跡 Ruinas de San Francisco, Monasterio San Francisco
ヌエストラ・セニョーラ・デ・ラ・アルタグラシア教会 La Iglesia de Nuestra Señora de la Altagracia
サン・ニコラス・デ・バリ病院跡 Ruinas del Hospital San Nicolas de Bari?総督の命によって建設され、完成までに40年の歳月を費やした。
ラ・カーサ・デ・バスティダス La Casa de Bastidas
ニコラス・デ・オバンド邸 Hostal Nicolás de Ovando

2009年02月23日

インドネシア語(Bahasa Indonesia)

インドネシア語(Bahasa Indonesia)は、インドネシア共和国の国語。この地域の交易語(リンガ・フランカ)であったマレー語の一方言を、国家の共通語としたもの。マレーシアのマレー語と非常に似ており、互いに通じ合うばかりでなく、現在では正書法もマレーシア語(のラテン文字表記)と共通である。形態論上では日本語と同じく膠着語に分類される。オーストロネシア語族に属する。時制も敬語もないため世界で最も習得しやすい言語の一つといわれている。
サイコ チューブ イニシャ コムデ ティーチ カクレミノ ビヨウ クロの景色 シェード テスト プラコ ノーヒッタ チャンピ シンタ シンパシー ジストニア カオリン リール ハイラ ガーター バブリ アセロ ダガナ くしがき ヒロイズム マジック さじ日本 テスラコイ ナイトツア トリップ でぃるは パーゴラ あせろら ファルス オーバ オーソラ ネイリ ビルジ マッチ ライト トスト チっつぐ ジャカー 真実の泉 フレッシ ミゼット レーション ケルシ 無情 ブーツ

もともとインドネシア語は、前述したとおり、独立前のオランダ領東インド時代、さらにそれをさかのぼる交易の時代に、マラッカ海峡の東西およびその周辺海域で用いられていた、交易のための用語だった(海峡マレー語という)。

そうした由来をもつインドネシア語が民族の言葉として認められていく過程で画期となったのは、宗主国オランダからの独立を求める民族主義運動期、1928年10月27日・28日に開催された第二回インドネシア青年会議における次のような決議であった。

青年の誓い
我々インドネシア青年男女は、インドネシア国というただ一つの祖国をもつことを確認します
我々インドネシア青年男女は、インドネシア民族というただ一つの民族であることを確認します
我々インドネシア青年男女は、インドネシア語という統一言語を使用します
民族主義運動初期には、オランダ領東インドで最大人口を誇ったジャワ人の言語、ジャワ語を国語にするという運動もあったが、この「青年の誓い」ではそういうジャワ優先主義は退けられ、以後、インドネシア語での言論・出版活動、民族主義運動などを通じて、インドネシア語が民族の言葉としての地位を確立していくことになった[1]。

独立後のインドネシアでは、インドネシア語が国語として整備された。国語教育が初等教育過程に導入され、官庁用語もインドネシア語に統一された。また、出版や放送メディアにおけるインドネシア語の使用も、この言語の普及に大きな役割を果たした。このような来歴をふりかえると、もともとインドネシア語を母語とする人口は少なかったが、民族主義運動期、独立後の過程を経て、インドネシア語を母語とする人口が徐々に増えてきたことがうかがえる。

しかし、インドネシア語という公用語に対する地方語の地位が衰えたわけではない。たとえば、ジャワの学校教育の現場では、授業はインドネシア語で行なわれるが、生徒はジャワ語でおしゃべりするという、「公の言葉」であるインドネシア語と「私の言葉」である地方語との使い分けは、学校教育に限らず、インドネシア人の生活のあらゆる場面でみられる光景である[2]。現在でも、ジャワ人の日常ではジャワ語が、またスンダ人の日常ではスンダ語がそれぞれ用いられているなど、公用語と数百の地域語が並存している状況である。ただしジャカルタなどの大都市ではインドネシア語を母語とする人が確実に増えつつある。

なお、インドネシアから独立した東ティモールにはテトゥン語という民族語があるが、インドネシア統治下でのインドネシア語教育の結果、現在でもインドネシア語が通用する。ただし公用語はテトゥン語とポルトガル語である。

正書法と発音
現行のインドネシア語の正書法は1972年に制定され、1977年以降は国内の印刷物などはすべてこの正書法に従っている。ただし、人名については一部表記の混在がみられる(SukarnoとSoekarnoなど)。

文字にはラテン文字(ローマ字)を用いており、ダイアクリティカルマークはほとんど用いない[3]。日本語のヘボン式ローマ字と異なるのは、次の通りである(以下の発音記号は、左が国際音声記号、右がX-SAMPA)。

c 外来の固有名詞を除き、tch の発音/t?/=/tS/。 例:cabe(チャベ)=唐辛子, cinta(チンタ)=愛
e エの発音の場合と曖昧母音の場合とがあり、単語により決まっている。辞書や初心者向けの本のように区別する必要がある場合には、エの発音の時にéと表記する。
f、v 共にfの発音になる。 例:fiskal(フィスカル)=出国税, visa(フィサ)=ビザ
sy sh の発音/?/=/S/はこう書かれる。
w 英語のwと同じ発音になる。 例:warna(ワルナ)=色, wisata(ウィサタ)=観光
ng 日本語東京方言の「わたしが」の「が」の g の発音/ŋ/=/N/で、gともnとも明確に区別される。
h 母音の後ではハ行の無声音、または発音されない。 例:bolehkah(ボレ(へ)カ(ハ)→括弧内は無声音, ボレカ)=いいですか
そのほか、

ny ニャやニの子音であるが、nにyが続いた音ではなく、別個の発音/?/=/J/である。
kh のどの奥からハッと出す音/x/(?)。現代では/k/で発音することも多い。
そのほか、語尾の閉鎖音ははっきりと開放されず、その舌もしくは唇の形をして終わる。

アルファベットの発音は、以下の通り。

アー ベー チェー デー エー エフ ゲー ハー イー ジェー カー エル エム
A B C D E F G H I J K L M
エヌ オー ペー キー エル エス テー ウー フェー ウェー エクス イェー ゼッ
N O P Q R S T U V W X Y Z

Cは、古くから使われている略語の時、「セー」と発音する。例:AC=アーセー=エアコン、WC=ウェーセー=トイレ

アルファベットの並び順は上の通りであるが、辞書によっては、語頭に限りKh、Ng、Ny、Syを別の文字として

A B C D E F G H I J K Kh L M N Ng Ny O P Q R S Sy T U V W X Y Z
のように並べることがある。すなわち、

nusuk→nganga
dingin→dinihari

文法
交易語(リンガ・フランカ)として外国語として学ばれ話されることが多かったせいか、文法は世界の各言語の中でもきわめて簡単な方に入る。

語順
Saya makan nasi. - 私はご飯を食べます。

文の語順は、基本的に S(Saya 私)- V(makan 食べる)- O(nasi ご飯) である。ただし日本語のように主語を省略することがある。
名詞・人称代名詞には格による変化はない。また、動詞は、主語の人称や数、時制によって変化しない。
Saya orang Jepang. - 私は日本人です。

英語のBe動詞にあたる語は必要ない。S(Saya 私)- C(orang Jepang 日本人)でよい。名詞および名詞句からなる文を名詞文という。
Saya tamu. と tamu saya

修飾・被修飾の関係をあらわす語順は、修飾される語の前に修飾する語を置く。Saya tamu. は、saya(私)+ tamu(客)で「私は客です」という文(名詞文)、tamu saya は、被修飾語+修飾語で「私の客」という句(名詞句)である。同様に orang Jepang は「日本人」、orang-hutan(オランウータン)は、orang(人)+ hutan(森)で「森の人」を意味する。
例外として、数を表す語および時の経過を示す語は前に置く。例えば dua jam は、dua(基数の 2)+ jam(時)で「2×時」すなわち「2時間」を意味する。これに対して jam kedua は、jam + kedua(序数の第2)で「第2の時」、すなわち「2時」の意味である。
Silakan duduk. - お座りなさい。

命令文の一例。他に Minta kopi. (コーヒーをください)など。また、Mari kita makan.(食べましょう)は英語の Let's do - にあたる勧誘の文である。

時制
インドネシア語に文法上の時制はない。過去、現在、未来を言い表したいときには、「明日 besok」、「昨日 kemarin」のような時間を表す語を添える。Saya makan nasi kemarin.(私は昨日、ご飯を食べた)

しかしながら、未来形をあらわす際は、Saya akan makan nasi dengan teman saya.(私は明日、友達を食事をします。)という表現もなくはない。

完了形をあらわす際には、Saya sudah makan nasi.(わたしはもうご飯を食べてしまった)、進行形をあらわす際には、Saya sedang makan nasi.(わたしはご飯を食べているところです)のように、副詞(句)などを用いる。

語形変化
印欧語によくみられる、文法上の数、性の区別がないので、意味の変化を伴わない語形変化はない。また、時制がないので、時制による動詞の語形変化もない。

意味の変化を伴う語形変化は、もっぱら接頭辞、接尾辞による。原則として語幹は変化しない。たとえば、語幹動詞 makan(食べる)は、makanan(食べ物)、pemakan(食べる人)、minum(飲む)は、minuman(飲み物)、peminum(飲む人)などのように派生語を作る。

語形の変化は、必ず規則的である。代表的な語形変化として、命令文以外の文で、動詞が他動詞として目的語を明確に示すときには語頭に me- を付ける。このとき、語幹の最初の音によって、me- が men- や meng- になったり間に挟まれた子音が鼻音化する規則的な変化がある。また、人称代名詞が前後に接頭辞、接尾辞として付着することがある。(基本的な法則としてmengの場合は接頭語が母音若しくはkで始まる場合、menの場合は接頭語がtで始まる場合、memの場合は接頭語がpで始まる場合、その他はmeになると考えると覚えやすい。)

このように、語幹に特定の接頭辞が付いたとき、規則的に語幹の語頭の子音が鼻母音化することがある。また、口語では、接頭辞が付いて語幹の語頭の子音が鼻母音化した後に接頭辞部分が省略され、あたかも語頭が変化したかのような変化をする場合はある。


人称代名詞
人称代名詞は、英語などのような格変化はなく、また日本語のように格助詞を必要ともしない。

saya(サヤ) - 私
Anda(アンダ) - あなた(Aは大文字にする)
dia(ディア) - 彼、彼女(性の区別なし)
kita(キタ), kami(カミ) - わたしたち( kita は話者の相手を含む包括形、kami は相手を含まない除外形、という区別がある)
kamu(カムゥ) - あなたたち
mereka(ムレカ) - 彼ら、彼女ら

動詞
makan(マカン) - 食べる
minum(ミヌム) - 飲む
minta(ミンタ) - 欲しい
mau(マウ) - したい
Saya mau minum kopi. - 私はコーヒーが飲みたい。

名詞
jalan(ジャラン) - 道
Jepang(ジュパン) - 日本
bahasa(バハサ) - ことば
bahasa Jepang(バハサ ジュパン) - 日本語
orang - 人(オラン)
orang Jepang(オラン ジュパン)- 日本人
nasi(ナシ) - ご飯
kopi(コピ) - コーヒー

畳語
日本語にもよく見られる、同じ音を繰り返す語(畳語)がある。語と語の間にハイフンを入れる。名詞の複数形を示す他に、「多様」や「相互」、「反復」、「強意」などをあらわす。

negara (ヌガラ) - 国 → negara-negara - 国々、諸国、いろいろな国
orang - 人 → orang-orang - 人々、いろいろな人
sedikit - 少し → sedikit-sedikit - 少しずつ
sama - 同じ → sama-sama - お互いさま、ご一緒に、どういたしまして
kira-kira(キラキラ) およそ、だいたい
abu-abu(アブアブ) 灰色
laki-laki(ラキラキ) 男
pura-pura(プラプラ) ?のふりをする
gara-gara(ガラガラ) ?のせいで
kura-kura(クラクラ) 亀
lumba-lumba(ルンバルンバ) イルカ
sehari-hari(スハリハリ) 日常の
pertama-tama(プルタマタマ) 初めに


数字の語順は、11-19の例外をのぞけば、日本語と同じく左の桁から右の桁へ、桁の名前を挟みながら読んでいく。ただし、3桁ごと。3桁ごとにピリオド (.) を添えて表記することもある。小数点はコンマ (,) で表す。

0 - kosong(コソン),nol(ノル)
1 - satu(サトゥ)
2 - dua(ドゥア)
3 - tiga(ティガ)
4 - empat(ウンパッ)
5 - lima(リマ)
6 - enam(ウナム)
7 - tujuh(トゥジュ)
8 - delapan(ドゥラパン)
9 - sembilan(スンビラン)
10 - sepuluh(スプル) < se=1, puluh= ×10 の意味
11 - sebelas(スブラス) < se=1, belas= +10
12 - dua belas(ドゥアブラス) < dua=2, belas= +10
20 - dua puluh(ドゥアプル) < dua=2, puluh= ×10
21 - dua puluh satu(ドゥアプル サトゥ)
30 - tiga puluh(ティガプル) < tiga=3, puluh= ×10
100 - seratus(スラトゥス) < se=1, ratus= ×100
200 - dua ratus(ドゥア ラトゥス)
300 - tiga ratus(ティガ ラトゥス)
1000 - seribu(スリブ) < se=1, ribu= ×1000
2000 - dua ribu(ドゥア リブ)
10000 - sepuluh ribu(スプル リブ)
100000 - seratus ribu(スラトゥス リブ)
1000000 - sejuta(スジュタ)
1000000000 - satu miliar(サトゥ ミリアル)
0,12 - nol koma satu dua(ノル コマ サトゥ ドゥア)

表現
あいさつ
Selamat pagi(スラマッ・パギ)- おはようございます
Selamat siang(スラマッ・スィアン)- こんにちは(など、日中の挨拶)
Selamat sore(スラマッ・ソレ)- こんばんは(など、夕方の挨拶)
Selamat malam(スラマッ・マラム)- こんばんは、おやすみなさい(など、夜の挨拶)
Selamat tidur(スラマッ・ティドゥル)- おやすみなさい
Apa kabar?(アパ・カバル)- ご機嫌いかがですか?お元気ですか?
Baik(バイッ)- 元気です

その他
Selamat datang(スラマッ・ダタン)- ようこそ
Terima kasih(トゥリマ・カシー)- ありがとう
Sama-sama(サマ・サマ)- どういたしまして(Terimakasihに対して必ず答えられる)
Selamat jalan(スラマッ・ジャラン)- (立ち去る人に対して)さようなら(二度と会えない別れに用いる)
Selamat tinggal(スラマッ・ティンガル)- (留まる人に対して)さようなら(二度と会えない別れに用いる)
Sampai jumpa lagi(サンパイ・ジュンパ・ラギ)-ではまた、さようなら
Maaf(マアフ) - すみません、ごめんなさい
Tidak apa-apa(ティダ・アパアパ) - かまいません、大丈夫です

2009年02月06日

倭国大乱

倭国大乱(わこくたいらん)は、弥生時代後期の2世紀の末葉に倭国で起こった争乱である。中国の複数の史書に記述が見られる。列島規模であったとされており、日本史上初の大規模な戦争(内戦)だとする意見もある。
いしゅく モルゲン ソニック サシン プラウザー チャプ ノビル すいたい イルク トンブ じゅんさい エンジンシ テクニ クロス リーファ 青皮栗 きんし リターン ラリマール セリバシー ステンド トローク モーグル イヌツゲ リズム バスタブ スペース たまねぎ SEOハツ アオクサ ショット アップ オートモ ファイト リケッチア ぬく森 吾亦紅 ビリンビン ガロン ハナズオウ シェー シュピ へいどん ゲーター カレッジ レジデ カヌー マウンテン はなさか ハハコ

倭国には代々男子王がいたが、倭国は争乱状態となった。争乱は何年も続いたが、最終的に邪馬台国の卑弥呼を倭国王とすることで争乱は収まった。以上の内容が、中国の正史である『三国志』(魏志倭人伝)や『後漢書』(東夷伝)に記述されている。

『三国志』魏書 卷30 東夷伝 倭人(魏志倭人伝):「其國本亦以男子爲王住七八十年 倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子爲王 名曰卑彌呼 事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿」
その国(倭国)は元々、男子を王としていたが70?80年ほどで終わった。倭国は乱れ、何年も互いに攻め合うに及んで一人の女子を共立し王とした。名を卑弥呼という。鬼道を用いてよく衆を惑わし、既に年長で、夫は無かった。
『後漢書』卷85 東夷列傳第75:「桓 靈? 倭國大亂 更相攻伐 歴年無主 有一女子名曰卑彌呼 年長不嫁 事鬼神道 能以妖惑衆 於是共立爲王」
桓帝・霊帝の治世の間(146年?189年)、倭国は大いに乱れ、さらに互いに攻め合い、何年も王がいなかった。一人の女子が現れた、名を卑弥呼と言い、年長になっても嫁かず、鬼道を用いてよく衆を惑わしたので、ここに於いて王に共立した。
『梁書』卷54 列傳第48 諸夷傳 東夷条 倭:「漢靈帝光和中 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子卑彌呼爲王 彌呼無夫壻 挾鬼道 能惑衆」
後漢の霊帝の光和年間(178年?184年)倭国は乱れ何年も攻め合うに及んで、卑弥呼という一人の女子を共立して王とした。卑弥呼には夫が無く、鬼道を用いてよく衆を惑わした。
『隋書』卷81 列傳第46 東夷傳 俀國:「桓靈之間其國大亂 遞相攻伐歴年無主 有女子名卑彌呼 能以鬼道惑衆 於是國人共立爲王」
桓帝・霊帝の間はその国(倭国)が大いに乱れ、互い順番に攻め合い、何年も王がいなかった。卑弥呼という名の女子がおり、鬼道を用いてよく衆を惑わしたので、ここに於いて国人は王に共立した。
『北史』卷94 列傳第82 倭國:「靈帝光和中 其國亂 遞相攻伐 歴年無主 有女子名卑彌呼 能以鬼道惑衆 國人共立為王 無夫」
霊帝の光和年間、その国(倭国)は乱れ互いが順番に攻め合い何年も王がいなかった。卑弥呼という名の女子がおり、鬼道を用いてよく衆を惑わしたので、国人は王に共立した。夫は無かった。
五書とも内乱の時期を2世紀後半としている。

議論
上記両書に若干の差異があることから、その解釈をめぐり多くの議論が行われている。

男子王
『後漢書』東夷伝に、永初元年(107年)、倭国王帥升が後漢へ使者を出したとあるが、帥升以前に倭国王の存在が史書に見えないことから、中国王朝が公認した初の倭国王は帥升だったとし、魏志倭人伝の記述は、帥升に始まる倭国王の系統が70?80年存続したことを表す、とする議論がある。これによれば、107年頃から帥升の王統が開始し、70?80年後の180年?190年頃に王統が断絶したことになる。ただし、魏志倭人伝に見える男子王を帥升に同定することに否定的な意見もある。また桓帝・霊帝(146年?189年)の倭の大乱から逆算すると66年頃には倭国王が居たこととなり、帥升が初の倭国王だったことに疑問が生じる。
原因
大乱の原因としてまず想定されるのは、倭国王位の承継をめぐる争いである。弥生時代の倭国は、多くの政治勢力(国)に分かれており、倭国王は政治勢力間の利害を調整するために置かれていたと推定される。しかし、利害調整を担いうる人物の不在あるいは調整不可能な程の利害対立の発生などにより、倭国王位をめぐる大乱が生じたのではないかと考えられている。『後漢書』の「何年も王がいない状態が続いた」とする記述は、上記の議論を裏付けている。
しかし邪馬台国以前に「倭国王」のもとでの政治的統合があったとする説には異論も多い。『後漢書』東夷伝に出てくる帥升にしても、倭国の統一的な王ではなく、一地方政権の王に過ぎなかったとも見える。大乱の原因としては、倭国の王位の座をめぐる争いというよりは、2世紀後半より始まった地球規模の寒冷化の影響を受けた土地収奪争いにあったとする説がある。いずれにせよ、2世紀後半から3世紀にかけて、近畿から瀬戸内一帯までの広域に出現した高地性集落が「倭国大乱」とどう関連するかが、大乱の性格を知る上では重要となると見られる。
時期
魏志倭人伝は、男子王の系統が70?80年経過した後に争乱が起こったとしているが、『後漢書』は、桓帝・霊帝の間(146年?189年)に大乱が起こったとしている。両者の時期が一致するかは、魏志倭人伝において男子王の開始時期がいつ頃に想定されているかによることとなる。上記「男子王」に見られる様に、男子王の系統が帥升に始まったとすれば、大乱発生時期が180?190年頃となり、『後漢書』のいう時期と重複する。なお、後世の『梁書』には、「霊帝光和年中」(178年?184年)とより限定的な記述もあるが、これについては卑弥呼の即位した年を示すものではないかと考えられている。
規模
倭国大乱がどの程度の規模のものだったかについては、諸説分かれている。最も有力な説は、北九州から近畿までの瀬戸内海沿岸にわたる広域的なものだったとする説である。瀬戸内海地域から2世紀後半頃の高地性集落遺跡(山頂等に営まれた城塞的な集落の遺跡)が多数発見されており、上記説の根拠とされる。倭国大乱は北九州あるいは畿内だけの限定的な争乱だったとする説なども一部で提唱されている。
意義
倭国大乱の歴史的意義として、卑弥呼を中心とした新たな政治体制が再編成されたことが挙げられる。弥生時代を通じて、日本列島各地で政治勢力の広域化が進んだが、107年頃の倭国王(帥升等)の登場は、北九州地域の政治勢力の統合を意味する大きな画期だったと考えられる。その後の倭国大乱は、帥升に始まる政治体制に限界が訪れたことを示唆する。(一方で高地性集落を大乱の傍証として用いる場合、大乱は北九州ではなく近畿から瀬戸内にかけて広域に出現したことになり、北九州の帥升の政治権力と大乱とを直接結びつける考え方は矛盾をきたすことになる。)その旧体制の限界を克服するために、卑弥呼を女王とする新たな政治体制が構築され、倭国大乱が収束することとなったのではないかと推測されている。なお、新政治体制の中心となった邪馬台国が北九州に所在したか、近畿に所在したかによって、この新政治体制の評価も異なる。卑弥呼による新政治体制は、安定的なものだったらしく、倭国では3世紀中期頃の狗奴国戦争が起きるまでの比較的長い間、争乱が起きなかった。

否定意見
日本神話に倭国大乱を想定させる記述が見られないことにより、倭国大乱の存在を否定する意見があるが、神話は必ずしも歴史事実を記録している訳ではないので、この意見はごく少数派にとどまっている。また、中国文献が倭に悪いイメージを与えるため、大乱の記事を載せたとする意見もあるが、正当な史料批判とはいえない。吉野ヶ里遺跡から矢じりが刺さったままの人骨や首から上が無い人骨が発掘されるなど、むしろ、考古学の見地からは、倭国大乱のあったことが裏付けられている。

2009年01月22日

セクシャル・スレイヴァリー(英:sexual slavery)

性的奴隷(せいてきどれい)とは英:sexl slaveの訳であり、現代欧米においては広汎に使われる表現である。 具体的関係の中でより従属的立場の者が、より支配的立場の者により意思に反して継続的に性的行為を強要される状況(その多くは退去(移動)の自由・性的自由を完全に奪われる)でのその人・関係・状態を指して、性的奴隷と呼ばれる。 (広汎な用法は21世紀初頭までは日本で一般的に受け止められていず、○○奴隷とは扇情的比喩用法であった。慰安婦問題によって外国の表現が移入されてきている段階である。)

性的奴隷は、古代から19世紀までの階級的奴隷制の一形態・一側面にも存在したが、近代においては20世紀前半の国際連盟において、娼婦の多くが前借り借金で縛られている不自由さや人身売買の状況を問題視する視点から、強制労働などとともに「奴隷」の表現が当てられた。

性的奴隷制度、セクシャル・スレイヴァリー(英:sexual slavery)と形容される場合もある。

現代においては俗語的用法も多く、広汎に被害者が継続的な性的行為を強要される場合を指しても用いられる。

これらの人々は、階級的意味はなくても奴隷的といえる自由を奪われた状況下で性的な行為を強要されている。人身売買や不当搾取といった人道上にて問題視される人権蹂躙が絡み、これを成す事や看過する事は多くの社会で忌み嫌われている。一方、貧困や社会情勢の問題により、まだ社会的地位の弱い児童などがこれらの犠牲者となるケースも見られ、国際的にも問題視されている。

特に暴力によって拘束するケースも多く、これらでは日常的に暴行される事により精神的に疲弊し、逃げる気力を喪失している場合もあり、心的外傷(PTSD)と呼ばれる心理的なダメージが生じた場合、治療も長期に渡るケースが多い。

法律上としては、20世紀初めから、前借りによる拘束労働を、人身売買・奴隷制類似のものとする国際世論が存在した。1956年の奴隷条約の補足条約では負債奴隷制及び農奴制の完全な廃止を規定している。これは日本の前借りによるいわゆる身売りを対象に含むものである。

現代における性的奴隷

性風俗産業
セックス産業(性風俗産業)に従事する者のうち、十分な報酬を与えられず、また勤務外でも身体の拘束を伴うなどの奴隷的環境で働かされる者をさす言葉。世界各国でも多くの場合、人身売買などにより外国や国内の未発達地域から連れて来られ、法律上の根拠が無い債務を背負わされて身体を売るのが普通である。一般には拘束期間が明ければ解放されるが、性的に魅力的であり高収益をもたらす者、または逆に所属する性産業に十分な利益をもたらさなかった者は、拘束期間を延長されることがある。

戦争
イラク戦争で米軍女性軍人が男性捕虜に性的暴行を加え問題となった。

紛争地域
紛争地域において、集落を襲撃した武装集団が自身の身辺を世話をさせると共に性的な欲求の捌け口とするべく、未成年者を誘拐するケースが見られる。これらのケースでは、被誘拐者は常時武装集団により監視され、精神的にも追い詰められるケースも見られる。

誘拐・監禁事件
児童を誘拐し、それらに性的虐待行為を繰り返す犯罪者(変質者)のケースがある。これらでは特に都市の匿名性により犯人が特定されにくい事件も発生しており、日本では新潟少女監禁事件が2000年に発覚したが、これに伴い模倣犯の発生も見られた。 支配的傾向の見られる男性が、いわゆる「出会い系」サイトなどで知り合った女性を連れ出し、犬用の首輪・手綱で柱にくくりつけたり、暴力を振るうなどして逃げる意思を奪った上で性的行為を強要する例があり、日本でも確認された。

プレイとしての性的奴隷
いわゆるSMにおいて、性的遊戯として両者の合意の上で、Mの側が奴隷の役割を演じる場合があるが、これは本項における(強要された)性奴隷とは区別されるべきものである。

過去における性的奴隷

各国軍における性的奴隷
古来、軍隊の行軍等に伴って、軍人・兵士に対する売春または性的奉仕に従事し、またはさせられる慰安婦がいた。中には強制的なものもあり、似た事例は多く発生していたと想像されるしかし現代では倫理的な問題から廃止している場合が多く、性的欲求が捕虜に向けられることが多くなった。

日本の明治から戦前までの時期における性的奴隷
日本においては欧米と違い江戸時代から階級としての奴隷は存在しなかった。つまり社会的な意味での性的奴隷とは、当時強制的に売春婦にされた、または自発的になったがその後に搾取や人権侵害を受けた人々を指す。
ネオコ ダーリン ビザン じゅうも リューマ しゃかとう バウン シミュ クロレ スクウィ チンキキ バニリン ドレミ 喜びの泉 レプトン デニン プレス インビボ 太陽の記憶 スイーター スリーパー タイア レジャ リアシ リッター パール ブース ミクロ シネマイ ハーフ ブラック ゼニア シャンペン ひだまり ユーラ オービ キシロ みそぎ パドバ 太秋柿 ガールフ カーボン ケルベ ステゴドン プロト セラピー ショーウ サーチリス ラフト ラゲージ

集娼制
明治においてマリア・ルス号事件のさいに、郭の遊女が実質の奴隷に当たるとして政府はこれを形の上で解放した。しかし、前借り借金というシステムは存続し、法的な建前上遊郭を貸座敷と呼び変える形で存続した。

戦後の赤線廃止まで続く公娼制の元での娼婦の実態は、集娼制という形で郭からの外出が禁止されていたり、前借り借金で自由に仕事を辞められなかったりがほとんどであり、収入が搾取されたり、かってに売買されてしまうなどのことも横行していた。また、とくに朝鮮では少女がだまされて朝鮮外へと売られることが多かった。

旧日本軍における慰安婦
旧日本の支配地域の北朝鮮や韓国および日本の一部の研究者から、第二次世界大戦中に日本軍が戦地に配置した慰安婦をさして言われる場合がある。これに対して、保守派・右派を中心にこれを公娼[1]と主張する向きもある。主な理由は、(一部の犯罪行為は別物としてとらえ)、性奴隷という扇情的用語に対する反発と用語解釈の違い、また待遇条件が異なるというものである。 (慰安婦参照)

吉田証言などをきっかけとした朝日新聞などの報道や、1990年代以降の研究により、これら慰安婦に対して自由の制限と強制売春による甚だしい人権侵害があったと主張され、このような表現が用いられた。同様の表現は、国連人権委員会におけるクマラスワミ報告(1996年)、マクドゥーガル報告(1998年、2000年)においても用いられている。 [3]。しかし、その後の研究によって慰安婦強制連行についての吉田証言の資料としての価値が否定されるなど、その言葉の妥当性について議論がなされている。

なお、慰安婦問題を性奴隷の問題として扱うようになったきっかけは、1992年以降、日本弁護士連合会がNGOと共に国連において慰安婦問題を性奴隷としてあつかうよう活動し、1993年のウィーンの世界人権会議において性的奴隷制という用語が国連で採用されたのがはじまりであると、日弁連は語っている。

特殊慰安施設協会?
第二次大戦の終結後、進駐軍を迎えるにあたって日本の内務省は、上記の慰安婦と同様の発想に立って進駐軍用の慰安婦を用意し、「日本人女性の純潔を守る」ことを決めた。事実進駐軍による強姦が多く起こっていた。その結果特殊慰安施設協会が設立され、多くの日本人女性が集められたさいに、ときに甘言などでだまされたことがあったり、兵士による肉体毀損的な行為を受けたというが、移動の不自由や接客拒否ができなかった継続性がなければ、一時的な暴行被害があっても奴隷的とは呼べない。

風習と価値観
過去においては、その土地の女性の魅力と思われつつも、現代では虐待としか見えず、奴隷の象徴と見えるものもある。中国では女性を表向き大事にするといいつつも、清代末まで盛んだった纏足。アフリカで今も残り、女性らしさの形成に役立つと信じる者もいる女性割礼、ヨーロッパの女性を苦しめたコルセットなどである。

^ もっとも当時の日本の公娼制度はそれじたい性的虐待[要出典]が少なくなかったという批判もある
^ 従軍慰安婦 吉見義明 岩波新書 1995
^ 例えばA modern history of Japan:from Tokugawa times to the present, Gordon, Andrew, Oxford University Press, 2003(日本の200年、アンドリュー・ゴードン、みすず書房、2006)

2009年01月15日

マジックマッシュルーム


フィーバー プレイン ニソガラ てっさく ヒット ロイター 花いちもん スダコタ まんば 甘露国内 ダウト 茜色の約束 イコン デジポ 田園列車 ライプチヒ スキャ ジンビター ププス セレナーデ チガヤ ジャスト ドライカ サンカ デッド 場春夢 スーパー カジスカ ピアサポト マンボウ モンド クロミッド タロミクス せっせっせ レーン ナイト いまさく リース あずきいろ カートリ チューハ レビュ フィン ふすまえ シャブシ カーソル ベロニカ キャリ バビロニ キャラ
マジックマッシュルーム(Magic mushroom, Psychedelic mushroom, Psilocybin mushroom)は、幻覚成分であるトリプタミン・アルカロイドのシロシビン、またはシロシンを含む菌類(キノコ)。100以上の種が存在する。

もともとは、古代メキシコなどでシャーマンが神託を得るために食べるものであった。アステカ族は「テオナナカトル」と呼び、神聖なる物として扱っていた。

1950年代になるとアメリカのキノコ研究者ロバート・ゴードン・ワッソン (R. Gordon Wasson) らの実地調査によってこれらのキノコの存在が明らかにされ、1959年ごろアルバート・ホフマンが幻覚成分を特定し、成分にシロシビンとシロシンと名をつけた。

栽培されるなどしてリゼルグ酸ジエチルアミド (LSD) などと共にサイケの原動力となった。

2005年、首相官邸の植栽にヒカゲシビレタケが生えてるのが発見された。胞子はどこかから飛んで来たか、持ち込んだ土に含まれていたと考えられる。

メソアメリカの先住民は、先コロンブス時代から数世紀にわたり、マジックマッシュルームを宗教儀式や病気の治療などに用いてきた。グアテマラのマヤ遺跡では、キノコの形をした小型石像がいくつも発掘されている。14〜16世紀に栄えたアステカ王国では、ナワトル語で「神の肉」を意味する「テオナナカトル」と呼ばれ、キノコを食べる先住民の姿などが描かれた写本(Magliabechiano Codex)も残っている。またアステカの花の神ショチピリ像には、幻覚キノコや幻覚性植物の彫刻が身体にほどこされている。スペインによる征服とカトリック布教に伴い、幻覚キノコや植物の使用は弾圧されたが、人里離れた地域では現在でも用いられている。

1938年、趣味で植物標本を集めていたオーストリアのレコ医師とハーバード大学の民族植物学者リチャード・エバンス・シュルティスの二人は、当時の植物学では実態がはっきりしていなかった「テオナナカトル」を特定するためメキシコに赴き、オアハカ周辺に住むマサテク族と交流、数種類の標本を手に入れる。

1955年、銀行の副頭取だったゴードン・ワッソンは、シュルティスが発表した論文を読んで興味を持ち、マサテク族のマジックマッシュルームを用いた治療儀式に白人として初めて参加した。翌年の訪問に同行したフランスの菌学者ロジャー・エイムは、LSDを合成、発見したスイスの化学者アルバート・ホフマンが勤めるサンド社に乾燥マジックマッシュルームを送る。ホフマンは幻覚成分の特定、抽出に成功し、2種類の分子構造をシロシビンとシロシンと名付けた。サンド社はシロシビンの錠剤、インドシビンを製造。ワッソンの発見は、1957年にアメリカの雑誌ライフに、Seeking the Magic Mushroomsというタイトルで発表される。「マジックマッシュルーム」という用語は、ライフ誌の編集者が考えたものであった。

60年代にはハーバード大学で大規模なシロシビン実験が行われる。1960年にメキシコでマジックマッシュルームを食べた心理学教授のティモシー・リアリーは、神秘体験をして衝撃を受け、オルダス・ハクスリーやリチャード・アルパートらと共に研究を開始。刑務所の囚人や、400人ものハーバード学生らにシロシビンの錠剤を投与した結果、前向きな変化が現れることを確認。神学校の学生に投与した際には、10人中9人が本物の宗教的な体験をしたと報告した。

70年代に入ると、LSDの規制に伴いナチュラルな幻覚剤の人気が上昇する。マジックマッシュルームが登場するカルロス・カスタネダの『呪術師と私 - ドン・ファンの教え』や、テレンス・マッケナ、デニス・マッケナ兄弟による、マジックマッシュルーム栽培ガイドが出版され、ハイ・タイムズなどのカウンターカルチャー雑誌は、自宅でマジックマッシュルームを簡単に栽培するための菌糸や栽培キットの販売を行うようになった。

種類
マジックマッシュルームの多くは、シビレタケ属やヒカゲタケ属に属する。多くの種が存在し、その大きさや形態、生育地、シロシビン含有率は様々である。高熱や圧迫感などを受けると表面に青色をおびる種が多い。

代表的なマジックマッシュルーム

ミナミシビレタケ Psilocybe cubensis(熱帯、亜熱帯地方で、雨期に動物の糞上に発生する。成長が早く、最長15-30cmの高さになる)
シロシベ・キアネセンス Psilocybe cyanescens(最もシロシビン含有率が高い。大きなカサをもつ6-8cm程度のキノコ。硬材に発生)
ワライタケ Panaeolus papilionaceus
ヒカゲシビレタケ Psilocybe argentipes
アイゾメシバフタケ Psilocybe subcaerulipes
センボンサイギョウガサ Panaeolus subbalteatus

作用
肉体的作用
脱力感、悪寒、瞳孔拡散、嘔気、腹痛などが挙げられる。一般的には、嘔気、腹痛、悪寒は摂取後より1時間ほどで収まる。脱力感は使用時の状況により感じない場合も多いが、多量摂取時には多くの場合それを感じる。
知覚的作用
視覚の歪み、色彩の鮮明化(瞳孔拡散に起因する場合もある)、皮膚感覚の鋭敏化、聴覚の歪みなどが挙げられる。閉眼時にも視覚的な認識があり、何らかの模様や色彩的な変化を感じる。LSDの知覚的作用に良く似ているが、一般的に視覚的な変化はLSDを上回る。
感情的作用
感情の波が激しくなり、摂取者の経験に因る部分もあるが自身での感情のコントロールが難しく、偏執に捕らわれることも多い。基本的には多幸感が伴うが、感情の波がネガティブな方向に向かってしまう薬物経験(いわゆるバッド・トリップ)になるとパニック症状を起こしたり、ネガティブな偏執に捕らわれたりする。効果が消えてからも、摂取経験からくる何らかの偏執に捕らわれることもある。
摂取より1時間ほどで効果が現れ、5から6時間ほど持続する。ほかの薬物摂取と同様に摂取時の周りの環境や自分自身の精神状態(セットとセッティング)の良、不良により、経験する内容も大きく変わる。

作用としては、LSDと区別できない。

法規制
シロシビンとシロシンは、1971年の国連会議で定められた向精神薬に関する条約において所持や使用が禁止されており、違反すると罰せられる。その延長で、シロシビンを含有するキノコの所持、使用も禁止されている場合が多いが、国や州ごとの法律によりその違法性は様々である。シロシビン、シロシンを含まない胞子に関してはさらに曖昧になっている。

日本
日本ではシロシンおよびシロシビンを含有するキノコを、「麻薬、麻薬原料植物、向精神薬及び麻薬向精神薬原料を指定する政令」[1]の第2条で麻薬原料植物として規制対象にしている。
麻薬及び向精神薬取締法では厚生労働大臣の許可なく栽培することが禁じられており、同時に同法では麻薬成分を自然に含む植物を麻薬として扱わない規定が、麻薬原料植物の指定を受けて適用されなくなる。許可なく輸入し、輸出し、製造し、製剤し、小分けし、譲り渡し、譲り受け、交付し、施用し、所持し、又は廃棄してはならない。と定められ、違反すれば罰せられる。
1990年代より、サブカルチャー向け雑誌等で合法ドラッグの一種として紹介されていた。当時は栽培等を規制する法律がなく、またヒトヨタケ科などに属する腐生菌が多いため栽培も容易であり、野放し状態であった。薬として、また食品として販売することはそれぞれ薬事法、食品衛生法に触れるため、「観賞用」等の名目で販売されることが多かった。雑誌の通販などでほそぼそと販売されていたが、インターネットの普及でより広範に販売されるようになり、2001年には、伊藤英明がマジックマッシュルームを摂取して入院するという騒動が発生、社会問題化しつつあった。その際に、販売者は摂取した人の体験談を掲載し「このような症状に陥るため、間違っても食べないようにしてください」と、危険性を訴えているかのように見える表現をしながら、興味をあおるような態度をとった。
2002年6月に麻薬原料植物に指定され、非合法化された(この時点では、シロシビン及びシロシンの抽出のみを禁止していた)。しかし、日本国内に自生している種をいくつも含むため、そのような種は人里や山野に自生しているものを容易に観察することができる。一方、キノコの研究者の間からは、
調査研究用に、自然に生えているものの標本や胞子紋を採集することも不可能になること
ベニテングタケなどのイボテン酸を含むキノコは規制対象になっていないこと
の2点を疑問視する声もある。

オランダ
2001年に乾燥マジックマッシュルームの所持、使用が違法化されたが、加工されていない生のマジックマッシュルームは合法。しかし2007年オランダ政府は、旅行者などによる事故があいついでいることから、すべてのマジックマッシュルームの所持や栽培の違法化を検討していると発表した。2008年にマジックマッシュルームの生産と販売を禁止した。
イギリス
2005年に違法化
アメリカ、カナダ
一部の州では、胞子の所持に限り合法